S21監獄とも言われ、プノンペンの中心からやや南方に位置する高校だったが、ポルポト(pol pot)時代に政治犯収容所となりました。2年九ヶ月の間に17000名以上の反革命分子とその係累を収容したと言われ、毎日虐められて死んだ人は数えられなく、プノンペンが1979年にベトナム軍に攻め落とされた時に、ここに遺体14体と生き残った人7人しかありません。 館内に展示されている刑具や紹介などが恐ろしくてぞっとするほどです。
1975年、クメール・ルージュはプノンペンを占領してから、当時のリーダーのポル・ポトが毛沢東の狂信者で、中国文化大革命から汲み取った経験により、暴力政治を極めて残虐な程度に発展して、無階級平等社会を実現し、一歩で共産主義になるため、プノンペン及び周りの全ての大都市から約200万人を農村に追い払いました。私有財産制が取り除かれ、貨幣や商品が取り消され、都市や家庭が段取りよく消滅されました。革命に学問は不要と言う方針を打ち出したポル・ポトを始めとする当中央は追い払えた知識分子及び係累の約2万人をプノンペンに突き出してS21監獄に投入しました。色々と残酷な拷問と虐待にかけて、数多くな人は死にまして、生き残った人は郊外の刑場(Killing Fields of Choeung)に護送されて殺されました。クメール・ルージュが統治した5年の間に、200万人を超えた人が殺されて、当時の人口の30%でおります。