ラックムアン(市の柱の神殿)
ラックムアン「市の柱の神殿、バンコク シティ ピラー シュライン」はバンコクのグランドパレスの近くにある道路の向こう側に位置していて中にタイの守護神と言われるラックムアン(Lak Muang)が祭られています。タイや東南アジアなどのほかの国でも、このような町の守護神を象徴する国の柱と言われるものが良く見られます。この考え方は昔のインドから始まり、カンボジアあたりでも良く見られるようになりました。タイではこの柱が支配階級の政治的宣言だともみなされています。ただこのような柱の効用と象徴的意義が時間が経つにつれて変わりました。1872年4月に即位したラーマ一世が15日間してからバンコク城の営造を始めるように命令を下しました。新しいシヤィムの町の場所を定めようとしてそこでまず一本の柱を立てるように命令しました。すなわち私たちが現在見ている割に高い方の柱のことでした。ここにまた天の宮殿と言われる図案も描かれていて、タイの繁栄とビルマからの侵略を防げるように祈祷を行うための場所とされました。ラタナコーシン(Rattanakosin)時代にまとめた皇族の呪い術の中に彼らがよくラックムアン(Phra Lak Muang)やほかの町にある守護神に祈祷の儀式をよく行ったと書いてありました。チャクリーシャイム(Chakri Siam Empire)王朝の象徴としてそれぞれ違った国境線の定めによりバンコク以外の戦略的町の中心部にもシティ ピラー シュラインを立てることがあったと記録しています。例えばタイの南部にあるソンクラー城(Songkhla)にあるシティ ピラー シュラインは従属国であるマレー国(Malay)を監視することを象徴していました。更にカンボジアのバッタンバン ( Battambang)、チャンタブリー(Chanthathuri)、チャチューンサオ Chachoengsao)、サムットプラカーン( Samut Prakan)などの町にこのような柱も立てられています。ラーマ四世とマングクッタ国王時代において国の柱はそれぞれ違った意味を表し、マングクッタ国王が元の割に高い柱を撤去し、その代わりに割に低い柱を立てることになりました。それに合わせた同じ構図である天の宮殿の図案も添えました。これはタイがビルマやベトナムに侵略されないようにするものではなく、ヨーロッパからの入植者からの脅威を除くためだと言われました。マングクッタ国王はかつて出家し、Phra Sayamthevathiratの神像を選び、シャイム王国の神権の象徴と定めました。この新しい神権を象徴する柱が確定されたことから、パラクマシーンと他にいる守護神のステータスは昔ほど重要ではなくなりました。その時から皇帝の権力が次第にヨーロッパ各国の政府とシビリアン体制に取り変わられていました。